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7月24日(号外)
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古い絵日記21
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安倍総理がこの国のリーダとして不適格だと思う原因として、「彼には文化の素質がなく、他者を思いやる誠実さがない」ことを私は挙げます。

 

絵描きとして私のたどり着いた“文化”の定義は、人がよりよい生活を目指すなかで、様々な工夫によって生み出されるものの集積、というものです。

人の世は、それぞれの欲望が入り混じり、対立や競争が避けられない。生まれ持った環境も平等ではありません。

しかし、そんな中でも「人々にとって生活しやすい、潤いや思いありのある社会にならないだろうか」というような理想を持って現実に対処し、

様々な工夫を凝らして生活を改善しつつ生きていくのが、政治家の役目であり、企業(メーカー)の製品開発の原点であり、芸術家の役目であり、

つまり“文化創造の原点”だろうと思うのです。

 

かつて資本家や軍部に虐げられた民衆の中から政治家を志した人々は、「庶民の生活を向上させたい」というような、

政治の目指すべき具体的なイメージを持っていました。

しかし、2世3世議員の多くは生まれた時から経済的に恵まれ、政治の世界しか知らないゆえにそれがありません。

「よりよき生活への渇望」が生み出していく“文化”の意義を理解できない彼らは、その文化的欠乏を国家とか天皇制とか単一民族とかいう

わかりやすい単純な箱(枠)を無理矢理引っ張り出してきて、それに自己を同一化させることで埋め、安心しようとしています。

文化というものの多義性を理解しない彼らは、自分たちが頼りにする観念的な文化の枠を、管理教育で全国民にまで押しつけようとします。

それが狭義の理想の押し付けであることを理解しないし、そのことでかえって文化創造の生まれる人の心の広がりを奪い、硬化させてしまいます。

 

“文化”を生み出すためには、それぞれの領域での人材育成(視野の獲得と技術の習得など)が必要です。この基礎の部分が育たなければ、

言われたこと、教えられたことしかできない、つまり現実に迎合していくだけの人々しか育てられず、長い目でみたとき国を衰退させるでしょう。

 

繰り返しますが、“文化”への理解のないリーダーは、“文化”を育むために必要な土台を人々の心の中に作ることができないばかりか、

観念的な文化観の外枠(美しい国とか愛国心とか)を民に押し付けることで、人々の心の中の文化創造の感性を潰してしまうと思います。

そしてそのことに彼は気づいてもいません。それだけでも、彼がこの国のリーダーとして不適格だと、私は断言します。